| 2002/12/01(Sun) |
| <第6感> 不思議な第6感が当たる日って本当にあるんだなぁと実感しました。 自分の車のタイヤのことが気になって、きょうはいつも以上に運転に慎重を期していました。加世田までの途中で、下り坂を走っていた時のことです。反対の登り車線は追い越し車線と、登坂車線の2車線あります。 ふと追い越し車線を猛スピードで走っていた車に危機感を感じて、思わず身構えてしまいました。無論、その時は何もなかったのですが、その飛ばしぶりに嫌なものを感じたのです。 なお一層運転に気を配りながら会場に着くと、後輩の記者から着信がありました。 前前から主催行事の取材では記者が事故に遭うことがあって、「あの嫌な予感はこれだったのか!」と緊張しました。 この予感は半分当たっていました。後輩記者からの連絡は確かに事故の連絡でした。でもそれは彼が当事者になったのではなく、目の前でひき逃げ事故を目撃したため、警察に事情聴取を受けているというものでした。 何でも、目の前を走っていた車が、ずっとフラフラあぶない運転をしていたんだそうです。いい加減クラクションを鳴らそうかと思った矢先、対抗車線に飛び出し、女性2人の乗った車にぶつかって、そのまま逃げていったといいます。女性はおおけがをして生命の安否が気遣われます。 実にいたたまれない話です。自ら飲酒運転をした挙句、人の車に突っ込んで、逃走するという救いようのない犯罪です。くしくも免許切り替えにいって、飲酒運転の罪が今まで以上に厳しくなったということを聞いた矢先の出来事でした。飲酒の挙句、ひき逃げでは即懲役という重罪です。 本当に車を運転する人間の責任を考えました。帰る時、いの一番でタイヤを買い換えました。 |
| 2002/11/30(Sat) |
| <溶かれたわだかまり> 休日明けの仕事は川内高校まで取材に行ってきました。近頃僕の車はタイヤの「丸坊主」化が著しく、いい加減替えなきゃと思いつつも、金欠の身を呪い、それでも更に大きな出費をしてしまって悲しい思いをする前に替えるべきだと、思いが乱れながら入来峠を越えました。 取材のついでに川内高野球部の監督さんに会って、ずっと以前から気になっていたことを聞いてみました。 今年7月の日記にも書いたことですが、夏の準々決勝の鹿児島商戦で終盤、攻守にわたって不可解なさい配で負けてしまった試合についてです。長いことずっと気になっていましたが、きょう話す機会があったので、思い切って切り出してみました。 監督さんの語り口には非常にとつとつと一言ひとことをかみ締めるようなところがあって、好感の持てる方です。監督さんも当時の悔しさを再び思い出したような表情で話してくれました。 開口一番は「さい配ミスだ」と言います。一番気になっていたのは、最終回の敬遠満塁策で3、4、5番勝負をしたことです。先頭の9番打者に三塁打を打たれて一打サヨナラのピンチを迎えた時に、次の1番打者との勝負に嫌な直感が働いたといいます。それまで鹿商の1番には打たれていませんでしたが、そのときは本当に嫌だという直感だったそうです。 こればかりは外野にいる人間では決してうかがいしれない話です。借りに1番を敬遠で歩かせて無死一、三塁として、当然次の2番打者はスクイズが考えられます。するとくさいところを突いて結局は満塁というケースも十分考えられます。「ならば」結果がどうあれ最初から満塁にして中軸勝負というのが監督さんの考えだったそうです。エース宇都が故障のため終盤明らかに球威が落ちた展開では、満塁にしてどこかで併殺を取るようなプレーがなければ勝てないという判断だったということです。 無論、この敬遠策は僕は今でも失敗だったと思います。でも、川内というチームが、チームとしての結論の中でそういう選択をしたことにはようやく納得がいきました。それを知ったからどうというわけではないのですが、ひとつのわだかまりが溶けたような気がしました。 |
| 2002/11/29(Fri) |
| <21世紀枠> このホームページでまた新たな出会いがありました。すでに掲示板でお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、スポーツライターの井上光成さんという方です。井上さんは僕が最近読んだ「遥かなる甲子園」の著者で、福岡を拠点にしてスポーツ心理学を切り口にしたライティング活動などをしてらっしゃる方です。「遥かなる甲子園」にホームページのアドレスが出ていたのでアクセスしてみたらすぐに返事があって、僕の文章に関してスポーツ心理学の立場から鋭い批評をして下さいました。僕もいずれはスポーツに関する単行本を出してみたい夢があります。これからいろんなことを教えていただきたいと思っています。 今朝の新聞で、来春のセンバツ甲子園の21世紀枠で、新潟県高野連は北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんの母校を選出したという記事が出ていました。 もっともこれは各都道府県レベルの推薦校の話ですから、実際その学校が21世紀枠で選ばれるかどうかはまだ分かりません。それにしても「21世紀枠」だの何とか枠だのと、選出基準の不透明な枠を作ることを、僕は大反対です。 確かこれはセンバツを活性化させるために、従来の選考方法とは違った基準で選ぼうという目的で作られたものだったと記憶しています。しかし、僕は、スポーツの世界において結果以外の要素で選考したら、スポーツの平等性が根本から崩れてしまうと考えています。 この21世紀枠も県大会ベスト8(だっかたかな?)以上という戦績の基準はあるにせよ、その選考基準を満たすチームは全国に×47都道府県分あるわけです。その中から、文武両道だの、部員の態度が他の模範になるだのと、とうてい万人を納得させることのできない、選考委員の主観が思い切り入ってしまう選考理由をつけなければならないのです。 仮にどんな学校が選ばれたとしても、「ええあんな学校が?」と思う人がいるでしょう。「文武両道」の基準って何でしょう? 部員の成績が何とか模試でどのくらいとかまで調べないといけないのでしょうか? 「他の学校の模範」なんてこれほどあいまいなものはありません。スポーツの世界で万人を納得させるものがあるとすれば、それは結果以外の何物もありません。そもそもセンバツという考え方自体がナンセンス極まりないものですから、ベストの方法があるはずもありません。 さすがに僕も、春のセンバツをなくせとまではいいません。ベストな選出ではないにもせよ、九州大会ベスト4以上とか、各地区大会の成績によって選考する以外、現状のセンバツでベターな方法はないと思います。こんな不確かであいまいなことをやっているから、選考の当落で無用な悲劇が起こるのです。 |
| 2002/11/28(Thu) |
| <骨抜き> 今朝「はなまるマーケット」を見ていたら、「骨抜きにされた魚」というのが特集されていました。 簡単便利化の時代もここまできたかと暗たんたる思いです。何でも入院患者で骨付きの魚が食べられない人のためにつくられたものから端を発して、魚を食べなくなった近ごろの子供に、まずは食べるきっかけを作ってもらうためにもいいのではということですが、それにしてもねぇーー。 救いなのはインタビューした町の魚屋さんは「こんなの魚じゃない」と憤慨し道行く人も、否定的なコメントが多かったこと。司会の薬丸さんもおもむろに不快感を示していました。さすがに斉藤アナは番組で取り上げた以上、スポンサーの絡みもあるのか、「近ごろの親は子どもが魚は嫌だといったら、その言葉に従うしかない親も増えているのだから、食べてもらうためにはいい商品だ」などと弁解がましいことを言っていましたが、どうも無理があるようです。 実をいうと僕も魚は苦手な方で、積極的には食べないし、はしの使い方もうまくないのですが、最近そのことを真剣に反省し、人前で恥ずかしくない食べ方ができるように努力しているつもりです。いくらなんでも魚をばらして骨を抜いて、再び決着剤で作り合わせたものを魚といって食べるなんて、邪道もいいとこ。「美味しんぼ」ならさしずめ決着剤の発ガン性なども含めて反論することでしょう。 何より、そんな子どもに妥協する大人が増えたことが心配です。以前、掲示板でも書きましたが、変に物分りがいい大人が増えて中途半端に子どもに妥協する人間が「理解のある大人」と勘違いされていないでしょうか? 「理解」と「妥協」は違うと思います。子どもが魚を食べないからといって、では骨抜きにしたものを魚として出すというのは「妥協」以外のなにものでもありません。まぁ取りかかりにはいいのかもしれませんが、そういう子どもは間違いなく魚は骨がないものと思い込んで、骨のある魚を食べなくなるでしょう。 えらそうなことは言えませんが、魚を食べることは難しいことです。その「難しさ」を教えることも大人の義務です。これからますます「骨抜きな子ども」が増えるのかと、つまらない皮肉を言いたくなります。 |
| 2002/11/27(Wed) |
| <いい文章> 文章を書くのが僕の仕事ですから、いい文章が書けた時がすなわち、いい仕事ができたときといえるでしょう。 では「いい文章」とはどんな文章でしょうか? 5年もやっているのに、あるいは5年やったからこそともいうべきか、なかなか難しいです。一つ言えるのは、後々読んでも「あぁいい文章だなぁ」と思える文章はいい文章と言えるような気がします。 そう思うと、この仕事をやってきて5年間で、この文章は本当にいいなと思える文章は数えるほどしかありません。今から自分が入社したてのころの文章なんて恥ずかしくて読めません。何か特集記事を書くときは、作家のように頭の中にピーンと記事の構成や文章がひらめいてそんなに時間を書けなくても長文の文章が書けるときがあります。昨年の2、3、4月で「楕円球に魅せられて」「光を追い求めて」「この10年を語る」と立て続けに長編の特集を書いたときはまさにこんな状態でした。でもその文章にしてみても今、読んで見ると所々不完全な部分があって、自分の思い込みや独り善がりな部分が許せなくなります。高校野球の企画にしても10回目まではなかなかいい出来だと今でも思いますが、最終回に自分の話を入れてしまったことなどその典型的な例です。比較的「光を追い求めて」の記事は視点といい、取り上げ方といい、今読んでもなかなかの出来だったかなと思いますが、そういう記事は本当に少ないです。 以前、自分がピーンとひらめいたときにすぐ書いてしまって、それがしばらくたってもいいと思える文章がいいものだという話を聞いたことがあります。ひらめきと冷静な判断のバランスを持ちながら文章を書くのが大事ということ。つまり、ひらめきはあくまで自分の中だけのものであって、それが読む人にとってもそうであるかは分らない。そのすりあわせがうまくいってはじめていい文章になるということなのでしょう。まだまだ修行が足りません。 <きょうのSCC> この3日間は軽めのウオーキング程度の運動しかしていなかったので、筋肉痛はだいぶ引いて調子がいい。ある程度運動が習慣化してくると、どこそこ痛みがあるのはある意味当然なのかもしれない。逆にちょっとぐらい調子が悪い方が、自分の体に注意が入るから大きな故障をしないですむ場合もある。何はともあれ、ここまで何の故障もなくこられたことはいいことだ。 きょうのメーン練習は75分間のLSD。いよいよ本番まで残り1カ月半となって練習も今までの「ゆっくり長い運動に耐えられる体作り」から「ある程度速いスピードで走る」ことにレベルアップしてきた。基本的に、水曜日が今まで通りのLSDなどのゆっくり長くの運動、そして金・土曜日はペース走や先週末から始まったインターバル走などスピード系の練習というメニューが中心になっている。 ゆっくりとはいえ75分のランニングは初めての経験だ。しかも、ゆっくり走るということは、それだけ接地面が長いということだから、かえって足には負担がかかるという。なるほどゆっくり走っていてついペースを上げたくなるのは無意識のうちに体の負担を軽くしようとしているからなのだろう。それを我慢してゆっくり走ることがこの練習の目的なのである。 きょうはゆっくり走りながらコーチの竹内君といろんな話をした。こういう場合一人で走るよりはだれかといた方が時間の経ち方も早く、心理的な負担も軽減される。初めての75分間走はそれほど疲労をためることなくやれた。めでたし、めでたし。 練習後、特集の第4回をプリントしてみんなに配った。今までの練習内容の復習にもなるものなのだが、みんな中身より使ってある写真の僕にしか目がいってない! 中身が大事やっちゅぅーてんねん!!! |
| 2002/11/26(Tue) |
| <免許の切り替え> きのうは川内・宇都投手のもとに近鉄のスカウトがあいさつにやってきたニュースを思い切り見逃してしまいました。夕方のニュースを見て「あぁじゃった!」とガックリ。以前、樟南・青野選手のロッテ入りの場合は学校からマメに連絡が来たので助かりましたが、自分で情報をチェックするという基本事項を怠ったがゆえのミスです。こういうのを業界用語で「特落ち」といいます。恥ずかしい!! 仕事の合間に免許の切り替えに行ってきました。 道路交通法の改正で、今年6月から(だったかな?)、優良運転者の切り替え期間が5年になり、講習も30分ですむようになりました。おかげさまでこの3年間は無事故・無違反でしたので、切り替えもスムーズに終り、めでたし、めでたし。日ごろから車を使う仕事柄だけに、今後も安全運転には細心の注意を心掛けたいものです。 思い起こせば3年前の初回講習には、ほろ苦い思い出があります。 12月初旬に、田舎道を走っていたときに、対抗車線を走ってきた居眠り運転の車と正面衝突! 僕が生れて初めて大枚をはたいた愛車は見事に廃車となってしまいました。 場所は見通しのいい直線道路で、対抗してきた車が自分の方ににじり寄ってきたときは、思わず我が目を疑いました。あとで「何でクラクションを鳴らさなかったの?」と言われましたが、ああいう場面に直面すると、気が動転して何も出来ない無力なもです。幸い双方ともケガはありませんでしたが、しばらくは車の運転が怖くて、特に田舎道が走れませんでした。 今でも対抗してくる車が少しでも危ない動きを見せると、ついハンドルを動かして回避運動をするくせがついてしまっているらしく、同乗者に「ハンドルを安定させなさい」と注意されることがあります。 でもケガの功名というべきか、事故にあったのが誕生日の1週間前。処理に来た警官から「切り替えがきてますから、済ませておいてください」と言われたのです。うかつなことに、免許を京都で取った僕は、就職して鹿児島に帰ってきてからも住所変更をせず、したがって切り替えの案内も届いていなかったので、誕生日までに切り替えなければいけないことを、そのときまで忘れていたのでした。事故に遭わなければ、あやうく失効してしまうところでした。何ともはや……。それにしても、免許を更新するたびに顔が丸くなっているのはどういうことだろう? |
| 2002/11/25(Mon) |
| <優秀な指導者とは?> 久しぶりに掲示板に「将来スポーツ記者になりたい」という中学生から書き込みがありました。本当にネットの世界ってすごいですね。こんなマイナーなはずのページにアクセスして教えを乞いたいという、その熱意にはいつも心打たれます。アドバイスはいつもと同じ「感性を磨いてください」です。 仕事柄、野球、サッカー、ラグビー…と県内のメジャーなスポーツの監督さんとは公私共に親しくお付き合いをさせていただいてます。特に高校野球の監督さんとは何度も酒を酌み交わしながら、仕事の付き合いを離れて叱咤激励、アドバイスを受けています。 自分が、積極的にアプローチして酒をいっしょに飲みたいなと思う人間にはある共通項があることに気づきました。それは、言葉の端々から「生徒のことを真剣に考えている」ことが伝わってくるということです。 「そんなの当たり前じゃん!」という方もいらっしゃるかと思いますが、意外と難しいものです。ともすれば「生徒のため」と口でいいながら、その実、自分のことしか見えていない人もいます。 例えば高校野球の指導者を志す人間は、少なからず「甲子園に生きたいから」という理由を掲げます。その動機がおかしいというつもりはありません。しかし、主語が「自分が」であるか「生徒が」であるか、そこに気づくか、気づかないかで、指導者としての質が大きく分かれるところであると、僕は思っています。 そして、僕が親しくさせていただいている監督さんは、必ずある時期にそのことに気づいて、自分を欲している生徒のために自分がいることを実践している方々です。「あいつはこういうことろがちゃんとなれば、うまくなれるんだが」と教え子の可能性を信じ、そのために己の身を捧げることに何のためらいもない指導者に惹かれます。 「あいつはここがだめだ」と指摘するのは並の指導者でもできること。「じゃぁ、どうすればこいつが良くなるのか」信念を持ってやっている指導者は意外に少ないような気がします。 |